2020年7月21日朝刊 The GUAM Daily Postより抜粋、要約

 

1944年にグアム島が日本軍の占領から解放されたとき、ソレダードさんは6歳。「解放を喜びました!戦時中の苦難を思い出しながら、私は生きています。 今でも思い返し怒りを覚え、時には神に仰ぎ、私たちを苦しめたすべての日本人を憎むことを許してください。」と思うことがあるという。鮮明に思う出すのはマネンガンにある強制収容所への長い列。家族は竹とココナッツで小屋を建て、床が汚れていたが幸いにも川がそばにあったので、病気にならず過ごせたという。

 

ピティに住むオファラさんは、当時は非常に激しかったと語った。「私は銃を運んでいる日本人が怖かったです」と言った。 「私たちが何もしていない時でも、日本兵は蹴ってきたり、食べ物を取り上げました。彼らがなぜそんなことをするのか、私にはわかりませんでした。私たちはすべてに従い、何もできず、従わないと殺される恐怖がありました。それでも私の家族のほとんどがまだ生きていることを嬉しく思い、神に感謝しています」と彼女は言った。オファラさんは今年11月に87才になる。

「私たちがグアム解放記念日のイベントを逃すのは初めてです」と戦争生存者ジョセフマフナスは言う。彼はグアムが解放されるわずか7ヶ月前の1944年1月に生まれた。「今日私が生きていることは、一種の奇跡です」と彼は語り、家族が彼をバリガダ記念公園の近くの洞窟に隠したことを聞いている。「日本人が統治していた時、日本人は現地人に労働を課し、子供たちから遠ざけるので、母は私を隠したそうです。両親があの厳しい日々を生き延びたとはまだ信じられません。まだ鳥肌が立ちます」と彼は言った。

 

Guampedia.comによると、日本でのグアム占領の3年近くの間に、1,170人の現地人が殺され、14,721人が日本統治下に苦しみました。アメリカ国防総省によると、グアムでは第二次戦闘中に3,000人以上の米軍が死亡、18,000人以上の日本人が命を落とした。

 

グアムと日本には忘れることのできない悲しい歴史があります。チャモロ人に嫁いだ私は、結婚前に主人から村や親戚が当時どのような状態だったかについて説明を受けました。アサン湾展望台の記念碑には戦争下で苦しんだ人として義母や義父の名前も刻まれています。チャモロ人と結婚した多くの人もそうですが、私も温かく家族に迎えてもらい現在に至っています。

 

グアムを訪れる旅行者に対してもチャモロの人はとっても親切でフレンドリーです。グアムの人々の間には、当時を生きたすべての人が戦争の被害者で個人的に誰も悪くない、大切なのは戦争によって得られるものはなにもなく、過ちを繰り返さない、という認識があるように感じます。

 

コロナ禍にある今、専門家は100年前の疫病と戦争の因果関係を指摘する人がいます。世界を見渡すと不穏な動きもみられます。コロナがコントロール下に置かれ経済が回復し、世界を旅する自由さと楽しみを享受できるような日が1日も早く戻ってくるように願いを込めて過ごしたい7月21日グアム解放記念日です。