2021年5月23日朝刊 Pacific Daily Newsより抜粋、要約
連邦議会では海外に駐留するアメリカ軍の通訳として活躍したアフガニスタンの人々を米国に呼び寄せようとするムードが高まっており、難民を定住させる場所としてグアムを検討している。
アフガニスタン人やイラク人の通訳者の米国移住を支援する「No One Left Behind」の共同設立者であるマシュー・ゼラー氏は、ディフェンス・ワン誌に対し、米国はアフガニスタンから人々を移動させるためには配偶者や子供を含むと7万人になり300機の軍用機を派遣する必要があると語った。
2009年に成立したアフガン同盟国保護法によって認可された特別移民ビザプログラムは、アメリカ人のために翻訳をしたアフガニスタン人とその家族をアメリカに呼び寄せることを可能にしている。これらの翻訳者はアフガニスタンに留まれば被害を被る可能性があるからだ。
他国との交渉が不要になるグアムはベトナム戦争や第一次湾岸戦争の時にも難民を受け入れている。1975年、サイゴン陥落後にグアムは13万人のベトナム人難民を受け入れた。1996-97年には、サダム・フセインがイラクのクルド人地域に攻撃を仕掛けたため、米軍はイラクのクルド人6,600人をアンダーセン空軍基地に避難させた。避難民は島で3〜4ヶ月間過ごした後、アメリカへ移住した。
バイデン氏は、9月11日までにアフガニスタンから米軍を撤退させる計画を発表している。
アフガニスタン紛争から20年
命を落としたグアムの若者たちを
忘れることはありません。
2001年からはじまったアフガニスタン紛争。グアムの多くの若者もアフガニスタンで命を落としました。一時期はアフガニスタンから戻ることのなかったグアムの若者たちの写真がグアム国際空港に飾られていましたがいつのまにかなくなってしまいました。遺族の希望だったのであれば納得できるのですが、写真をみるたびにこの国が戦時中であること、平和な南の島で育った若者がこの瞬間も危険と隣り合わせにいることを感じていました。
当時、私の周りにも息子や娘、旦那さんがアフガニスタンに行った人が多くいました。家族の心配を察しすると、なんと声をかけていいか困惑した記憶があります。任務を終えてグアムに戻った人の中にも精神的にダメージを受けた人もいます。傲慢で偏狭な考えを持つリーダーの存在が多くの場合に社会や世界に悪影響を及ぼしていると多くの人が感じているでしょうが、100年経っても変わらないのが悲しいですね。
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